Perpetua Perennis Impervia

永続的な、多年にわたる、不滅の

 

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幼馴染がいた。彼女と私が知り合ったのは5歳の頃で、そして小学校中学校が一緒、高校は習い事が一緒で、大学はバイトが一緒。腐れ縁というやつだ。

私は大学を半年休学して一年遅れで卒業したので、彼女は私よりも一足先に社会人になっていた。就活の年の春、彼女は早々に就職先を決めていた。いい事だ。彼女の周りの人も皆祝福していた。おめでとうおめでとう、と。

私の就活は、といえばもう混沌を極めていた。混沌、混沌。なにせ鬱病とかいう厄介なものを抱えていたのだから…という、これはもう言い訳だ。

自分が何がしたいのか、何ならできるのか。全く分からなかった。なんなら何もできない人間だと思っていた。今も思ってる。よく社会人できてんな、と毎日感心しているくらいだ。学生時代に力を入れていたことは何ですかって、そら研究以外に何かあるのか?というポンコツである。

幼馴染の彼女は言った。

気楽に探せば良いんだよ。合わないなと思えば辞めればいい。私は専業主婦になるのが夢なんだ。寿退社したい。そういう感じで選んだんだ。

我が幼馴染ながら意味不明もいい所だ、というのが正直な感想だった。私の置かれている環境(大学の)がやや特殊であることは認めるが、私たちの目指すところは「女性も『人間として』社会で活躍できると世に証明する存在となる」ことだった。まあ単純な言葉に落とし込むなら「価値観の違い」ただそれだけ。

 

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彼女の就職から一年が経ち、そして私が就職して、昔のバイト先に遊びに行った。すると店長が私に言うのだ。君の友人のあの子に会って話を聞いてあげてほしい、と。何か最近よく遊びに来るんだけど落ち込んでるみたいなんだよね、と。

習い事が同じだった。バイト先が同じだった。でも、別に学校が一緒だった頃とは違うから四六時中一緒にいた訳ではない。今じゃお互い何が好きなのか僅かにしか知らないし、大学でどんな生き方をしてきたのかも分からない。そんな人間が役に立てるわけがない。彼女には彼氏も居るんだし、慰めてくれる存在なら両手に溢れるくらい持っているはずじゃないか。「でも友達に話を聞いてもらうだけでも変わると思うから」と店長は言うのだ。

 

彼女に会う約束を早急に取り付けた。まさか「店長がなんか言ったから」なんておくびにも出さず、彼女には「衝動で会いたくなった!会おうよ、そして肉を焼こう!」と言った。

さて彼女の悩み事とは何か。彼氏と別れたか、はたまたDVでもされたのか。泣かされたなら言えよと伝えたはずだが、昔のバイト先にフラッと現れて落ち込んでいる様子を見せるとはただ事ではない。

 

結局のところ、彼女のその「悩み」は、会社が合わなかったので辞職する、ということだった。辞めるので、再就職先が見つかるまで昔のバイト先で働かせて欲しかったらしい。

「上司がクソだったんだよね。君、こんなこともできないの?って。あと仕事内容も単純に合わなかった。毎日毎日シフト勤務でバラバラだし、やることも、やらなきゃいけない事も毎日変わる」

上司の件はともかく、シフト勤務なのも、やることが毎日変化するのも、彼女のいた業界では「そういうもの」のはずだ。少なくとも、その業界に身を置くなら真っ先に知っておくべき就労条件だった。

「次は何に就きたいの。決まっているの?」と問うと彼女はにっこりと笑って言った。

「事務職かな。毎日決まったことだけで良いし、時間も決まってて、良いよね。楽でしょ?」

楽…だろうか。一応毎日見積書を作り受注処理などしている身としては「楽」と言われても疑問なのである。まあ楽かもしれないけど。あの感覚に似ている。英語って楽だよね、高校までみんな必須で習ってるじゃん?と英文科の人間に言い放つタイプの人間…そういう人は一定数いるが、まあその系統(もしくは延長線で)事務職って楽じゃん、と言われるとは思ってもみない。それも、幼馴染から。そして彼女は続ける。

「彼氏とは3年後くらいに同棲しようかなって思ってる。彼は研究者なの。それで大型の奨学金を3年後に貰えるかもしれないんだって」

夢を語る元気があるのは良いことだ。そして願わくば彼氏には、彼女に夢を与えた責任をとってくれと思った。理系研究者の彼がもしかしたら今後海外で研究活動をするかもしれないことも、奨学金の大部分が論文閲覧料、投稿料、データベース購入量に消える可能性が高いことも、どうやら彼は恋人に対して一切メンションしなかったらしい。

 

ぼんやりと聞いたのは、今の彼女が一応夜は寝られているのか、ご飯は食べられているのか。とりあえず彼女の精神状態を確かめようとしたのである。だが、当の彼女はといえば、何を聞いてるんだ?という反応だった。寝られてるし、ご飯は食べられてて当然じゃないか。そんな感じ。

じゃあ良いじゃないか、と思った。彼女は夜寝られている。毎日朝四時半のバイクの音を聞いて舌打ちする事もないし、白米の匂いを嗅いだだけで吐き出す事もない。家に帰れば怒鳴り散らして場合によっては拳を飛ばす親も居ないし(基本的に穏やかなご両親なのである)、彼氏がいる娘にGPSを仕込んで位置情報を見張る訳でもない。今日あるベッドは明日もある。親の気分次第で鍵を取り上げられて締め出させるなんて経験をしたこともない。彼女はきっと、きっと自分の手首にカミソリを当てるなんて、夢にも思わない。

幸せじゃないか、と思った。他に何を望んで不幸を感じているのだと。無論かのトルストイの名言(幸せの形は似通っているが、不幸の形は皆それぞれ)の戒めはあるが、それでも彼女には「安全な場所」を腕いっぱい溢れるほど持っている。

そして彼女は最後の止めとばかりに言った。

「貴女は良いよね。強いから」

何が辛いって、彼女はそれを賞賛の意図で言ったことだ。

 

強いもんか。そもそも鬱を患っている時点で強いもクソもない。そして確かに「強い」と言われる心当たりならいくらでもある。例えば私は自分の意見や意思を持つ事が大切であると思っていたし、むしろそうしなければ生きていけないような場所で生きてきた。あの親のもとで死なないように生きるには、自分という核を保たなければいけなかった。そうやって、いわば四六時中武装しているような生き方をしていたのだ。そうやって生きてきた過程で失ったもの、手を離さざるを得なかったもの、沢山ある。全部我慢してきた。今日を無事に生き抜いて、明日を迎えなければいけなかったから。

そんな23年間を彼女は気まぐれな言葉たった一つ落とし込んだのだ。「強い」と。私は(これは勝手な理想の押し付けだと言われれば否定できないのだが)幼馴染の彼女は私の生きている環境が厳しいものだと理解しているのだと思っていた。そうやってどうにか生きているのを、理解しているものだと...。

そしてこれは勝手に期待して理想を押し付けて、そして突き放した、本当にどこまでも自分勝手なソレなのだが、彼女は少なくとも「理解者」ではなかった、とあの日初めて知った。

 

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1ヶ月だ。1ヶ月考えよう。そう思った。彼女が今彼女なりのどん底に居てもなお美しい夢を見られる理由。3年後全てが安泰で輝かしい未来があるのだろうと信じられるメンタルの根源。彼女が会社を辞めるのは別に良い。遠回りでも幸せを追求することは何も悪いことじゃない。合わなければ辞めればいい、私は寿退社がしたいと言ったのは彼女で、律儀にも彼女は1年後にそれを自ら実践したのだ。寿ではないが。

そしてなぜ彼女は、私の人生を「強い」の一言で包んで纏めたのか...。

 

昔の彼女はもっと思慮深かった記憶がある。自分が今どの場所にいて、目標とする場所へ行くには何をすれば良いのか、どう努力すれば良いのか。どちらかといえば私なんかよりも堅実に考え、行動する子だった。

一体何がそんな彼女を「合わなければ辞めればいい」と自棄なのか軽挙妄動なのか分からないような発言をさせるまでにしたのか。そして破滅願望もないのだろうに、現実に足をつけた夢を見る訳でもなく、3年後の幸せを無邪気に信じられるようにしたのか。

夢を見るには根拠が足りなすぎる。人生を俯瞰できていない。それは一種の祈りなのか、慰めなのか、はたまたただの思考停止なのか。

...そしてなんだって?私が強いから、良いよねと?結局最後にはここに行き着くのだ。どうして彼女は、私がその虚勢のような強さを身につけなければいけないほど孤立無援だったのだと想像できないのだろうか。いやこれは最早八つ当たりなのだが。

 

そんなことを考え続けた。1ヶ月考えようとしたが、2週間ちょっとで限界が来ていた。

 

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退勤の途中で友人から連絡が来た。(幼馴染とは別の人だ。おそらく以前のダイアリーでメンションした、遠出をした時に車を運転してくれた友人である)

「ご飯行きませんか。よければ迎えに行きますよ」

突然すぎる。でも無性に会いたいと思った。この友人とは基本的に他愛もない話で構成された仲なので、きっとその間は何も考えずにいられるだろうと。それに自分に証明したかった。私は心のどこかで「もしかしたら昔の友人に会ったら悲しくなるかもしれない」と思っていたので、それをどうにか打ち消したかった。

だけど人生そう上手くいかないので、私は友人との合流先でかつて親にGPSストーカーされたことを思い出して若干の過呼吸を起こしたし、そのままiPhoneの電源は切ってしまった。(きっと少々のPTSDでも入っているのだろうと推測する。)何が滑稽って、新しい機種だったので電源の切り方が分からず、Siriに頼んだのである。Hey Siri, shutdown this iPhone, right now.

化粧していて良かったと思った。化粧なんて好きだった試しがないが、少なくともあの時自分の顔色がクソなのくらい、見なくても分かった。

彼は「最近親御さんが大変?」と聞いてきた(私が時々愚痴るので(と言っても軽い調子で重くならないように努めるのだが)、一応我が家の両親が人間的にアレなのは知っている)。まあ親が大変なのは今に始まった事ではない。どちらかというと目下の問題は別件なので。ただ、若干の過呼吸と共に取り乱しながらiPhoneの電源を切るようなヤツがろくな日々を送っているはずもなく。

「親は別に。ただ心配事は少なければ少ないほど良いでしょ」「本当に?本当に大丈夫なやつ?」「大丈夫だって、とりあえず親の方は相変わらずすぎて逆に大丈夫なの」

頭の中の花占い。幼馴染(共通の知人でもある)の話をする、しない、する、しない。最後の花びらが「する」で終わって、私は話を切り出した。「ねえ、昔の友人に会って楽しくて嬉しい1日になるはずだったのに、なんか辛くなることって、ある?」「ない」「だよね…」

もうそこからは怒涛だった。堰き止めてたものが一気に溢れ出すものに近い。さっきまで書いてたあれそれをそれなりに分かりやすく聞こえるよう言語化し、そして聞いた。

「分からないんだ。彼女が夢を見られるのも。あんなに楽観的にいられるのも。そして私のこと...強いだなんて」

彼の答えは肯定とは違い、だからといって否定でもなかった。これは彼の美点だと思うのだが、彼は安直な同情を示すことはないのだ。そして自分の思ったことや感じたことを自分の視点から語ってくれる。そしてその意見は大抵私の視点には無いものだ。

「まずね、他人なんですよね。貴女も僕も、彼女を助けたいと思っても、そこまで干渉も介入もできない。そんな力は僕らにはない。それに、仕事を辞めるのも、それで起きる利益不利益、全部彼女の人生なので、本当に僕らにはどうしようもない。

あと多分貴女が彼女を楽観的と見たのも、彼女が貴女を強いと思ったのも、それはただ一面でしかなくて...それで、多分同じようなものなんです。人間は多面性を持つもので、貴女は彼女の楽観的な面を見た。彼女は貴女の強いと思われる面を見た。それ以上でもそれ以下でもないんです。

で、この話を踏まえた訳ではないですけど...僕個人としては貴女が強いとは思いませんよ。貴女は黒白思考が強いし、曖昧さを許さないし、それに...それに、今はただそうじゃないってだけで、きっと貴女はスイッチが入ったらその瞬間に夜の海に突っ走ってくような人でしょう。...危ういんですよ」

まず、人の話を聞いただけでここまでの答えが導き出せるのは本当に素直にすごいなとしか言いようがない。そして「夜の海」の件についてはもうどうしようもなかった。何を隠そう私自身がいつだって夜の海に行きたいと願っている張本人である。いつも夢に見ているのだ。「あっち」と「こっち」の境目に立てるのはきっと海以外に無いだろうと。そして自分の気の済むまで海に足を踏み入れて、溺れるならその時だし、満足したら岸に帰ってくればいい。そう思ってる。夜の海を渇望しているのだ。だけど、それを彼に話したことは一度だってない。ただの一度だって。だから私はほんの少しヒュっと息を吸ってしまった。

 

シェリーって詩人知ってます?(おそらくフランケンシュタインの作者だろう)あの人、修道院に行った友人に詩を送ったことがあるんですって。その内容が、友人を称える感じの...貴女ほど勤勉で素晴らしい人はいないわ、みたいな感じだったと思うんですけど、そういうのをプレゼントしたんです。そしたらその友人が修道院から帰ってきたら、派手になっただか虚栄心の成れの果てみたいな感じだったか、まあそういう風に様変わりしてしまって。シェリーは悔やんだみたいです。あの詩を送るんじゃなかった、って。そして、彼女は私の知ってる友人じゃないって思って、それ以来少し疎遠になってしまったんだそうです。まあだから何が言いたいって、歴史上の人だってそういうことがあるんですから、から貴女がそれに対して罪悪感を抱くことはないんじゃ無いかなって。ひどく珍しい事象では無いのだと思いますよ」

さてその話の真偽はさておき(ソースを探しても見当たらない)、いきなり音もなくメンタルブレイクした人間に対して話せる例え話としては最適だったように思う。他人の反応や行動には限度があり、自分自身が責任を負いすぎる必要はないと。おそらく彼はそう言いたかったのだろうが、こう例え話にしてゆっくり考えさせようとするのはもう、その思考そのものが柔軟なのだ。…私にはできない。

 

いっそ彼のような人間になれたらなと思う。自分と他人の境界線がはっきりしている人は、助けられる範囲もちゃんと把握している。手当たり次第に解決策を練ったり行動したりするわけではないのだ。良いことだ。私はほんの少し、この点に関して安堵した。少なくとも、彼は傲慢では無いのだと。彼はこの日「僕と貴女はお互いにラインがあって、それを無闇に踏み込むことはない」と言っていた。そういうことだ。私は(おそらく彼も)一応「親しき仲にも礼儀あり」のソレではないが、よっぽどじゃない限りひどくお互いの内側を暴こうという気はない。それが「私たち」という関係であり、信用・信頼の根源でもあると思う。特に彼は過度な介入や無理な解決策を徹底的なまでに避けるので、基本的に物事に対して良い意味で他人事として、客観的に俯瞰する傾向がある。

私は少し逆だ。普段はそこまでではないが、いざ人の悩み事を聞こうとすると同じ目線に立とうとしてしまう。だから今回のような事態になる訳だが…。

 

結局のところ、本当にこの幼馴染に対するこの気持ちは総じて「自己嫌悪」なのだ。何に?彼女の状態が安定していることに対して「なんだ、じゃあ全然大丈夫じゃないか」と思ってしまった、私の狭量さやら、浅はかさやら、冷たさやら、そんなあれこれに。

己の軽挙妄動が根本の原因のくせに、こんなんでへこたれて、元バイト先の上司にまで心配をかけられるその甘ったれた根性をどうにかした方が良いだろうと、そう思ってしまった自分の醜さに。

なら私の人生はなんなんだ、と思ってしまう自分の愚かさに。決して弱みを見せるまい、心配をかけるまいと気を張ってきたこの人生は…どこにも安全な場所などなく、親の気分次第では朝の2時や3時まで家に入れないなんて人生が、それでもなんとか一日一日を「生き延びよう」とする自分の人生が、本当に一瞬にしてバカらしく思えてしまう、この愚かさに。

何も、私がこれだけ苦労したのだからお前も同じ苦労を味わえ、なんて思わない。むしろこの苦労は誰にも味わってほしくない類のものだ。抱えるものが大きすぎる。だけど、1人で考え続けた2週間、本当に止められなかった。乾いた笑い、それから涙。バッカみたい、悩みを聞いたら自分が悩み出すなんて!と笑い、そして彼女が私を「強い」と評したことを思い出してはひどく泣いた。じゃあ結局私はまたひとりぼっち!と。

このゴミのような思考の根本的な原因は、私が彼女の人生と自分の人生を同じ土俵で比較してしまったことだ。それくらい自分で分かっている。でも、やめられなかった。

 

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幼馴染に関しては、若干諦めてる。諦めの境地に至るまで実に1ヶ月かかり、その過程で無関係の人を巻き込んだのだが。

そう、諦めている。きっともしかしたら彼女の人生の中ではこの後今回の件を引きずった利益不利益が生じると思う。もしかしたらあと3回は仕事を辞めるかもしれないし、彼氏とゴールインして円満退社でもするのかもしれない。

なんだっていい。なんだって。死なないなら、もうなんだっていい。だってあれは彼女の人生なんだから。

1ヶ月経った。ようやくストンとそう思えた。